今から2千年程前、郡平野に文化を築いた時代があって、当時の豪族がその一門の氏神として建国の祖神をお祀りしたのが始まりで、肥前国彼杵郡の総鎮守となっています。

 御代草創が明らかでありませんが(縁起・伝書等、天正2年焼失により)上古より大社として元明天皇の和銅5年、行基菩薩が御神体を郡岳の聖域で謹製奉納したと記されてあります。大村家御支配となりてよりは、初代直純公を副祭して御歴代の守護神として御尊敬深く、兵乱には武運長久を祈り田地等数多く御寄進ありました。祭祠の礼も最も厚く文明年中の頃までは、社殿も華麗広大でありまして、開拓興業活水の神として民間の崇敬も厚く郡内はおろか他郡から貴賤老幼の参詣者群をなし、お祭りも大変賑やかに執り行われておりました。

文明6年12月29日、大村信濃守純伊公は、有馬氏と萱瀬で数度合戦され、ご勝利なく佐々加々良ヶ島に潜居7ヵ年に及びました。 この間日夜、御祈願になり、ご自身本堂川において身を清め千日参拝するとの誓願を立てられ、武運の開発を祈られましたところ、伊勢参宮せよとの霊夢を得て大勝利となり、文明12年8月9日御帰領になりました。諸豪の援助により、海路大村へ進撃、川棚・小串浦に上陸、彼杵の松岳城、郡村の好武城、今富城を奪還し破竹の勢いで敵を追跡したが、予てより朝夕戦勝を祈願している昊天神社に詣で、喜びの報告とともに境内に陣地を敷いて敵の夜襲に備えました。これを聞き伝えた宮小路・黒丸・沖田の領民たちは大喜びで先を争って駆け寄り、待ちわびた領主の姿を見て、うれし涙を流しながら早速食事の用意に取りかかったのです。(大村寿司の起源)
 昊天大神さま御神徳を尊び感ぜられ、祭祀の礼を厚く社殿の造営を壮に神田の寄進数町など、大村藩総鎮守としての神社の面目を一新された。この時、幸を恵まれたという意にて幸天神社と改名されました。
それから後、開運・旗上げ・厄除け・旅行の守護神として崇敬特に厚く、祭礼には彼杵郡48ヶ村により、氏子・崇敬者・群をなせりと記してあります。当時は、流鏑馬(やぶさめ)等の神事が盛大に奉納されていたということです。当宮は大村藩主の直祭社でしたが、明治になりまして廃藩置県後は、郡村にて奉斎しておりました。

 明治22年4月、町村が規制されてからは竹松村のみにて奉仕して参りましたので、地名を以て竹松神社と称していましたのを、昭和36年9月、大昔の通り昊天宮と改名いたしました。
 
 
昊 天 宮 の 由 緒